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2010年8月

2010年8月26日 (木)

がんには効かないホメオパシー

ホメオパシーに関するニュースが続いています。このブログもホメオパシーに関する記事が続きましたが、そろそろおしまいにしたい。こんなばかばかしい療法(療法というのもはばかられるのでオカルトといった方がよいのだが)に関わっているわけにはいかない。今夜は久しぶりのチェロのレッスンだが、チェロに関することも書きたいし、面白い本のことも書かなくてはならない。

「忘却からの帰還」さんのブログからの受け売りですが、ホメオパシーはがんには効きません。 NHSは2006年の段階で「ホメオパシーの対象範囲を軽度な症状に限定」しています。 承認しない一例として、

1994規制に対する新しい規制4(1B)として、人間の軽度な症状および軽度な病気を軽減すると述べている製品のみが、政府法規制のもとで、販売承認に ついて適格である。これらの目的のために、「医師の監督あるいは介入なしに、通常は、合理的に軽減あるいは治療できる症状」を軽度な症状とする。
これに該当しない症状の完全なリストは提供不可能である。
しかし、以下は、政府法規制のもとで販売承認できない症状の例である。

  • 骨の疾患
  • 心血管疾患
  • 慢性の不眠症
  • 糖尿病やその他代謝系の疾患
  • 肝臓や胆管系や膵臓の疾患
  • 内分泌疾患
  • 遺伝的疾患
  • 関節やリューマチや膠原病
  • 悪性疾患 [癌など]
  • 精神疾患
  • 眼および耳の重度の疾患
  • 重度の消化器疾患
  • HIV関連疾患や結核を含む重度の感染症
  • 癲癇を含む重度の神経疾患および筋疾患
  • 重度の腎疾患
  • 重度の呼吸器疾患
  • 重度の皮膚疾患
  • 性感染症
  • マラリアの治療および予防

繰り返すが、医師の監督の必要がない症状の完全なリストは提供不可能である。しかし、典型的な症状は以下のようなものである。

  • 消化不良、胸やけ、胃酸過多、口臭あるいは鼓腸
  • 疝痛、腹痛あるいは吐気、慢性でない下痢あるいは便秘
  • 乗り物酔い、あるいは関連症状
  • 軽度の皮膚感染症、子供の感染症やおできによる軽度の掻痒や発疹の緩和、水虫
  • 普通の風邪、咳、インフルエンザや上気道感染症に見られる症状
  • 喉の痛みを含む、口腔および咽頭の軽度の急性炎症
  • 筋肉痛や、腰痛、坐骨神経痛、腰痛、結合組織炎、リウマチの痛み、痙攣を含む筋肉のこわばり
  • 花粉症、アレルギー性鼻炎、カタル
  • 鼻詰まり
  • 偏頭痛をふくむ頭痛
  • 神経痛
  • 入眠困難
  • 動揺、不安、神経過敏、ストレス、緊張

ホメオパシーを適用しても良いと書かれた「典型的な症状」の多くは放っておいても自然と治るものです。そして、がん、膵臓疾患には「適格ではない」ということです。

本来のホメオパシー論理であるホメオパシー団体が反論していますが、本場の英国ではがんには効かないとはっきりしているわけです。帯津良一氏も五木寛之氏との対談本『健康問答』において、「ホメオパシーではがんは治りません」とはっきり述べています。それではなぜ帯津三敬病院でレメディを処方するのか? 彼の論理は「がんとの闘いに武器は多い方がよい」ということです。効かない武器を用いてがんと闘う? これは「蟷螂の斧」と言うべきか、それとも「いかさま」と言うべきでしょうか。

日本ホメオパシー医学会の倫理綱領では、(現在は倫理綱領はオープンになっていない)

第8条  本学会員は、ホメオパシーを通じ、社会に対して、医療従事者としての責任を果たし、又、貢献するよう努める。
2  ホメオパシーを、現有の医療の中では最もホリスティックな医療と位置づけ、社会の利益と福祉に貢献するホメオパシーのあり方を、常に検討し、実現するよう努める。
(科学的姿勢)
第13条 ホメオパシーにおけるその作用機序については、現段階では科学的に解解明されているとは言えないが、職務にあたっては、医療従事者として、科学的姿勢を尊重する。

とあります。「科学的に解明されていない」ものに対して、どのように「科学的姿勢を尊重する」のでしょうか。ホメオパシーが「現有の医療の中では最もホリスティックな医療」という位置づけですから、ホリスティックな医療を目指せば目指すほど、現代医療からは遠ざかることになりはしませんか。

がん患者は近寄らない方が無難ですね。すべて承知のうえでホメオパシーに賭けるのは個人の自由ですが。

チェロのレッスンは今日からフォーレの「夢のあとに」です。わくわくします。少し予習したが、難しそう。長谷川陽子やヨー・ヨー・マは簡単そうに弾いているのになぁ。あたりまえか(*´∀`*)

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2010年8月24日 (火)

【追記あり】「ホメオパシー」についての日本学術会議会長談話

マスコミでも報道されているとおり、日本学術会議会長の金澤一郎会長名で『「ホメオパシー」についての会長談話』が発表されました。全文はここ。 (日本学術会議のWebにあるPDFファイルではなく、当日記者団に配布された資料をアップしました。PowerPointの画像が追加されています)

タイムリーな談話として歓迎します。

  • ホメオパシーが医療関係者の間で急速に広がり、ホメオパシー施療者養成学校までができています。
  • レメディは「ただの水」ですから「副作用がない」ことはもちろんですが、治療効果もあるはずがありません。
  • 「水が、かつて物質が存在したという記憶を持っているため」と説明しています。この主張には科学的な根拠がなく、荒唐無稽としか言いようがありません。
  • その効果はプラセボ(偽薬)と同じ、すなわち心理的な効果であり、治療としての有効性がないことが科学的に証明されています。
  • 例えプラセボとしても、医療関係者がホメオパシーを治療に使用することは認められません。
  • 今のうちに医療・歯科医療・獣医療現場からこれを排除する努力が行われなければ「自然に近い安全で有効な治療」という誤解が広がり、欧米と同様の深刻な事態に陥ることが懸念されます。
  • すべての関係者はホメオパシーのような非科学を排除して正しい科学を広める役割を果たさなくてはなりません。
  • ホメオパシーの治療効果は科学的に明確に否定されています。それを「効果がある」と称して治療に使用することは厳に慎むべき行為です。
  • ホメオパシーについて十分に理解した上で、自身のために使用することは個人の自由です

会長談話という形をとっていますが、報道によると一年間内部で検討を重ねてきた結果だということですから、日本学術会議の総意と考えて良いでしょう。私のこれまでの主張とも一致しています。

長妻厚生労働大臣は平成21年1月28日の参議院予算委員会で次のように答弁して、ホメオパシーへの親和性を明らかにしています。学術会議が反対の談話を出した今、政府・長沼大臣はどうするのでしょうね。

○国務大臣(長妻昭君) 統合医療は、もう言うまでもなく、西洋医学だけではなくて、伝統医学、漢方、鍼灸、温泉療法、音楽療法、芸術療法、心身療法、自然療法、ハーブ療法、ホメオパチーなどいろいろな広がりがあるものでございまして、厚生労働省といたしましても、この二十二年度の予算でかなりこれまで以上に、研究分野の統合医療 の研究について十億円以上の予算を計上しまして、その効果も含めた研究というのに取り組んでいきたいというふうに考えております。

(議事録では「ホメオパチー」となっている)

朝日新聞では「治療に導入している大学病院もある」と書かれていますが、これは東京女子医科大学附属青山自然医療研究所クリニックのことでしょう。ここの川島朗医師もホメオパシーの信奉者で、あちらこちらで発言しているようです。

【追記】
apitalに当日の会見の様子
がアップされています。名指しではないですが長妻大臣の上の答弁についても注文を付けています。

会見資料では「日本の事情」として、日本ホメオパシー振興会(松永昌泰氏)、日本ホメオパシー医学協会(由井寅子氏)は挙げていますが、日本ホメオパシー医学会(帯津良一氏)は挙げられていません。どうしてか合点がいきませんね。唯一同じ医者仲間が理事長をやっている団体ということで遠慮したのかも。しかし、ホメオパシー医学会の方針をみると、会長談話とは真っ向から対立します。無視できないと思うのですが。

日本ホメオパシー医学会の方針
1) ホメオパシーは医療である
2) ホメオパシーを行うにあたって、常に患者の利益を最優先する。
3) ホメオパシーを行うものは近代西洋医学を修めたものとして、自らの専門性の範囲の中で治療を行う。
4) ホメオパシーを行うものは近代西洋医学、補完・代替医療を問わず最適な医療を提供する。
5) ホメオパシーを行うものは最良の医療を提供するために、他の医療従事者と積極的に協力する。

「あの事故は本当のホメオパシーではなかったから起きたのだ」という主張が早速されています。由井氏は間違ったホメオパシーであり、我々のが正しいのだという論理です。松永氏のブログです。

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2010年8月19日 (木)

ホメオパシーとアンドルー・ワイル

朝日新聞でホメオパシー関連の記事やブログが連続しています。このブログでも話題になる前からホメオパシーへの批判を書いてきたのですが、実際これほどまでに世間に広まっているとは思っていませんでした。がん患者のなかでもレメディーを投与されている方が多いようです。

朝日新聞は、関連企業である朝日カルチャーセンターにおいて由井寅子氏を講師とした教室を開いているのですね。ホメオパシー・ジャパンのwebでは朝日カルチャーセンターでの講座の開設情報がアップされています。また、帯津三敬塾クリニック院長の板村論子氏の講演が新宿の教室で開催されたりしています。帯津三敬病院のHPでも頻繁にホメオパシーの講演が予定されているようです。最近の一連の新聞記事は賞賛に値しますが、一方で別の法人格であるとはいえ、朝日の名を冠した企業でホメオパシーを宣伝し、本家の新聞ではそれを叩くというのはいかがなものでしょう。

人はなぜ治るのか―現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム

帯津系のホメオパシーは、現代医療の受診拒否までは要求していないようですが、がん患者にホメオパシーを浸透させる上では大きな役割を果たしていると思われます。アンドルー・ワイルもホメオパシーに関して多くの書籍で述べていますが、帯津良一先生とは考え方が違うようです。ワイルは『人はなぜ治るのか―現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム』でホメオパシーについて詳細に書いています。

ワイル自身がホメオパシーによる「不可解な治験例」を経験しています。1980年にカリフォルニア州バークレー市(先日処分したタンノイのスピーカーがBerkeleyだった。関係ないけど)に出張していたワイルが、突然わけの分からない痛みに襲われます。その痛みが時間をおいて何度も繰り返し襲ってきます。現代医療での検診の結果は、胃潰瘍または食道痙攣とのことであり、バリウムによるエックス線検査を勧められるが、検査は受けずに友人のホメオパシー医の診断を受け、硫黄を希釈したレメディーを処方されます。それ以後痛みは再発することなく過ぎている。こうした体験を持つワイルはまた、実際にホメオパシーで治った(と思われる)多数の例も知っている。しかし、だからホメオパシーは効くのだ短絡的に結果を出すわけではない。ホメオパシーがなぜ効くのか、三つの仮説を立てる。①たいがいの患者はいずれ治るものだから効いたように見えるだけである。AとBが連続して起きたとき、人はAがBの原因だと考えたがる。②ホメオパシーはプラシーボ効果を誘発することによって効くのである。しかし、プラシーボ効果と治療の直接的効果は、たとえ二重盲検法を採用しても完全に分離することは不可能である。③アボガドロ数の限界を超えるために、振盪することで試薬の記憶が水に刷り込まれるとする。しかし、科学的に納得させることは難しいだろう。

ワイルはむしろ、ホメオパシーがなぜ効くのかという問いのなかには、健康とは何か?病気とは何か?治癒とはなにか?治療とは?治療と治癒の関係は?というすべてのテーマが含まれているからだというのです。

ホメオパシーが人気になるのは、現代医療の側にも大きな責任があると思います。「今使われている一切の薬剤を海底に沈めることができたら、人類のためには最善の、魚にとっては最悪の結果になるだろう」とオリバー・ウェルデン・ホームズが言い、「医師は自分でもよくわからない薬を、さらにわからない病気の治療のために、まったくわからない人間に浴びるほど服ませている」とヴォルテールが言うように、あるいは乳がんの手術ではハルステッド法による拡大手術が永年標準的に行なわれてきたが、効果に差がないことが明らかになって今では縮小手術が多くなってきているように、現代医療の”やり過ぎ”が人々の不安を助長しているのです。

「もう治療法はありません」と言われた末期がん患者や、「再発予防のために、生活上で気をつけるようなことは何もありません」といわれた患者が、現代医療を投げ捨てないかぎりにおいてホメオパシーを試してみることにたいして、私は反対するものではありません。「絶対に効果のある治療法もなければ、絶対に効果のない治療法もない」からです。プラシーボ効果であれなんであれ、患者にとっては治ればなんだって良いのです。とはいっても、私には、似非治療だと確信しているホメオパシーによってプラシーボ効果がおこるはずもないから試してみようという気にはなりません。

しかし、医師がホメオパシー治療をすることには反対です。その医師がホメオパシーは効くものだと考えているとしたら、彼の医学を行なおうとする者としての科学的思考法に問題があるだろうし、プラシーボ効果だと考えていてなお処方するのなら、それは患者を騙すことによってしか効果を上げることができないということであり、患者と医師の信頼関係を破壊するだろうからです。ホメオパシーに心底傾倒している医者から処方してもらうのも怖い。こうした医師なら「抗がん剤はダメ、手術もしてはいけない。レメディーの効果がなくなる」と言うだろうから。

治ることに希望を持つことは大切なことです。しかし、得てして「希望」は「執着」になってしまう。ホメオパシーにかぎらず、あれこれの代替医療をとっかえひっかえ試している人は、「執着」になっていないか、一度自分の心を覗いてみてはみてはどうだろう。「執着」のあるところに「自発的治癒」は起きないだろうと思うからです。

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2010年8月16日 (月)

観ました「地球交響曲第7番」、霊性について

がんになる前は、東京都写真美術館には良く足を運んだものでした。数々のすばらしい写真展を観てきましたが、しかしここしばらくは足が遠のいていました。『地球交響曲第7番』を鑑賞するために久しぶりに恵比寿の駅に降りました。

6月20日のブログで紹介していますが、私の主な関心は、映画の中でアンドルー・ワイルが何を語るかということです。

地球交響曲(ガイア・シンフォニー)は、ジェームズ・ラブロックによって提唱されたガイア理論(ガイア仮説)をもとに映像化されたものです。ガイア理論は、生物と環境とが相互作用によって「恒常性」を形成していくという理論であり、地球をある種の「巨大な生命体」と見なす考え方です。

今、母なる星GAIAは悪性の肺炎に苦しんでいます。過激化する天候異変は、自らの力で病を癒そうとするGAIAの巨大な自然治癒力の現れです。そして、私達人類は、そのGAIAの心を荷う存在です。
「第七番」では「GAIAの自然治癒力」の健やかな発現を願って、GAIA本来の「心」とはなにか、その「心」に寄り添うために、私達人類は今、なにに気付き、なにを捨て、なにを取り戻すべきか、を問いたいと思います。

このような意図で作られた映画であり、印象的な映像と素敵な音楽に癒され、監督の意図は十分に伝わってきます。わたしたち「サル」は、あまりにも多くの物欲にとりつかれている。本当に大事なものは何なのか、何を捨て、何を残すべきか、切実な問題に直面しています。しかし、映画では随所に「霊性」ということばが示され、それが伊勢神宮・明治神宮・神社本庁あるいは神道の古代儀式と関連づけて映像化されている点には違和感を覚えます。古代シャーマニズムの伝統を受け継ぐ道祖神などの民間信仰と日本神道ですが、先の第二次世界大戦において果たした日本神道の戦争協力への役割を考えるとき、ガイアの平和と日本神道の歴史とは相容れないはずです。「霊性」のキーワードで日本神道の否定的役割を免罪してはいけない。

「霊性」ということばは、日本人にはなかなか理解できません。spiritを「霊性」と訳しているわけですが、英和辞典では「肉体・物質に対して人間の霊的なこころ」とか、「神、精霊」・「元気」「酒精」「(複数形で)強い酒」とあります。がんの治癒にメディテーションを推奨している多くの書籍でも「身体・こころ・霊性」というふうに書かれる場合が多いのですが、こころと霊性はどのように違うのか、私も長い間理解できませんでした。(今でも解らない部分が多いが)広辞苑(第4版)にも出てきません。

「霊性」という言葉は、鈴木大拙が『日本的霊性』で初めて使ったということです。その本の中で、霊性という言葉を使う理由、つまり霊性という言葉が従来からある精神、心、宗教意識などという言葉とどう違うかということを説明しています。「精神」が「物質」に対立する言葉であるのに対して、「霊性」は物質と精神の両方を成り立たせる土台であると述べている点が注目されます。あるいは「霊性」を「宇宙の中のいのちの自覚」であるとし、宮沢賢治においては「日本的霊性」を超えた「銀河的霊性」にまで及んでいるという研究者もあります。これなど私流に言えば老子の「タオ」ということではないか、賢治も大拙も同じことを言っているんだと思います。

霊性と言うといかにも観念的な影の薄い化物のようなものに考えられるかも知れぬがこれほど大地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。
大地の底は、自分の存在の底である。大地は自分である。
都の貴族たち、そのあとにぶら下がる僧侶たちは大地と没交渉の生活を送りつづけた。
彼らの風雅も学問も、幽玄も優美も空中の楼閣で本当の生命、真実の生活とかけ離れたものであった。

大地の霊とは、霊の生命ということである。
この生命は、必ず個体を根拠として生成する。
個体は大地の連続である、大地に根をもって、大地から出て、また大地に還る。
個体の奥には、大地の霊が呼吸している。
それゆえ個体にはいつも真実が宿っている。
(『日本的霊性』より)

ヘルシーエイジング

アンドルー・ワイルは最新の著作『ヘルシーエイジング』で「霊性」について次のように書いている。

日本で講演をするときは、話がこのテーマに関連してくると、通訳を悩ませることになる。英語の「スピリット」をそのまま「霊」と訳すと、わたしが幽霊とか、先祖崇拝とか、霊の憑依といった話をしていると聴衆に誤解されかねないというのである。むろん、そんな話をしているのではない。わたしはただ、われわれのなかにある不変の本質について注意を促そうとしているに過ぎないのである。

二十何年ぶりかで参加した同窓会のことを思い出します。四半世紀を隔てて、私のなかの記憶とその人の現実のイメージとの間には類似点が見つからない。なかには一目でこいつだとわかるやつもいる、一方でさっぱりとどこの誰だか解らず、最後まで気まずい思いをすることもある。しかし、少しずつ話をしていると、だんだんと記憶のなかの相手と目の前の相手が一致してくる。老いて別人のように変わった相手の外見を通して、何も変わらない本質のようなものが見えはじめるのである。老いたこの身体ではなく、半世紀もかけて経験と知識を学んできた精神(こころ)でもない。それ以外の何かが、クラスメートにも私にも確かにある。

ワイルは「霊性」とはこうした時間によって変化を受けることのないものであり、自己のその部分を「不変の本質」と呼ぶ。これが「スピリット」なのだと言うのである。そして「霊的な自己」への気づきに役立つスピリチュアルな活動として、こんなことをしなさいと言います。

  • 呼吸に注意を払うこと。自分の呼吸に注意を向け続ける訓練は、自己の非物質的な本質への気づきを高める方法である。
  • 自然とつながること。自然のなかを歩き、自然のなかで座ること。都会の大きな公園でもよい。
  • そばにいて元気が出る、幸福になる、楽観的になるような人物と過ごすこと。
  • 自宅に花を飾ること。
  • 魂を鼓舞するような音楽、精神が高揚するような音楽を聴くこと。
  • 絵画・彫刻・建築などの芸術作品に感嘆すること。
  • 疎遠になっていた人に連絡をして、繫がりを回復し、許す訓練をすること。
  • 何らかの奉仕活動をすること、自分の時間とエネルギーを他者のために使うこと。ただし、小切手にサインするだけの慈善活動はやめておく方がよい。

霊性に気付くとは、こんなことでよいのかと思うほどの内容ですね。宗教的実践とももちろん日本神道とも関係がないのです。

夏休みにワイルの著作を読み直している。手術の直後はよく読んだものだが、読み直してみると、自分の思想やがんに対する考え方もずいぶんと変わってきたことに気付くのです。

癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか (角川文庫ソフィア) 癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか (角川文庫ソフィア)
アンドルー ワイル Andrew Weil

心身自在 (角川文庫) 人はなぜ治るのか―現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム ワイル博士のナチュラル・メディスン いのちの輝き―フルフォード博士が語る自然治癒力 ヘルシーエイジング

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2010年8月13日 (金)

半減期

夏休みはチェロ三昧、読書三昧、昼寝三昧です。そうそう、映画も二本。世間のあわただしさをよそ目に、スローライフを満喫しています。

先日、目黒にあるジャズのライブハウスJay-J's Cafeに行きました。私はジャズといってもMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)程度しか知らないので、この日の演奏者が直居孝雄と増尾好秋だと聞かされてもピンときません。「ギター2台だけでパーカッションもないのか」とちょっと不満な気持ちで店に入りました。増尾好秋は聞くところによると世界的なジャズギタリスト。本人の話ではニューヨークでプロジューサーばかりやっていて、ここ20年くらいはギターを弾いていない。還暦も過ぎたからここらで演奏活動を再開した、とのことでした。同じ団塊の世代、そういえば学生運動の華やかなころ、早稲田のジャズサークルは有名でしたが、そのメンバーでした。増尾さんは自分の譜面をすべて忘れてきたというのですが、演奏はさすがにテクニックがありました。好きな道をただ一筋、うらやましい生き方です。

私の術後3周年を記念して誘っていただいたもので、その彼は1年半前に肺がんを手術した、いわば癌友です。したがって話題は当然癌の話。彼はCTでは異常がないものの腫瘍マーカーCEAがずっと上昇傾向で、もちろん基準値を超えていると言います。

彼「抗がん剤をやっても下がらない。別のに変えたが、あまり効果がない。私の場合、抗がん剤の副作用がほとんどないんだよね。ということは抗がん剤が効いていない可能性がある。」とタバコをすぱすぱやりながら言います。

彼「ま、肺がんの5年生存率が50%だから、5年後には五分五分かと思ったら、仕事の心配したり、悩んだりはばかばかしくなってね」

5年生存率50%程度でそんなに悟ったことを言われたら、5%~15%の膵臓がん患者としてはここで無言でいるわけにはまいりません。

私「5年生存率50%というのは、ちょうど生存期間中央値が5年ということでしょう。膵臓がんで手術不能の場合、生存期間中央値は3ヶ月です。生存期間中央値というのは、半数の患者が死亡するまでの期間ですから、放射性同位元素の半減期と同じです。半減期はもともとあった元素の数が半分になるまでの時間ですから。ちなみに膵臓がんで私のように手術適用の場合でも生存期間中央値は6ヶ月ですよ。」

※正確には、術後補助化学療法としてGEMを投与しなかった場合のMSTが6.9ヶ月。近年ほとんどの患者がGEMを投与されているので、その場合13.4ヶ月となる。一方手術不適用のデータ「3ヶ月」というのは日本膵臓学会の全stage非切除例データでGEMを投与しなかった場合の古いデータである。

彼「そういうことになるねぇ。」

私「コバルト-60の半減期が5.27年ですね。そしてイリジウム-192の半減期が74日。どちらもがん治療に使われる放射性同位元素であるのは偶然ですが、コバルト-60は肺がんのステージⅡB期の生存期間中央値と同じ、イリジウム-192はすい臓がんに近い。これも偶然でしょうか」

彼「そうするとあなたは半減期の6倍生きてるわけか。私が半減期の6倍生きるには5年×6=30年!!。90歳になる。がんを克服しても別の原因で死んでるなぁ。」

二人とも永年放射線の管理に従事してきた間柄ですから、この意味は即座に伝わります。ただ違うのは、放射性同位元素の減衰は限りなくゼロになるまで続きますが、がん患者の生存曲線はゼロに漸近するとは限らないということ。そして、原子核の崩壊は量子力学的な確率現象であるが、がん患者が生き残るかどうかは、ある程度は患者の努力によって影響を与えることも可能であるということです。彼の5年目には私が招待する約束になったのですが、それまでコバルト-60もイリジウム-192も”崩壊”しないでいられるかどうか、神のみぞ知るです。

肺がんのステージ毎生存率曲線

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放射性同位元素の減衰曲線

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コメントにもあるように、生存期間中央値に関するデータが引用が不適切であるが、ここでは「半減期」と「生存期間中央値」の相似性を話題としたものであるので、当時の話題の進展のままにしておく。正確には過去のブログ記事を参照願います。

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2010年8月 9日 (月)

35年目の別れ

35年間つきあった相手と別れました。妻と同じくらい長い付き合いでした。と、脅かすような書き出しですが、タンノイのスピーカを処分したのです。

タンノイのスピーカー Berkeley。買った当時は私もまだ20代の青年でした。私のクラシック音楽生活を、いつもどっしりと支えてくれた存在でした。当時、これもクラシック好きの同級生にピアノ協奏曲を聴かせたら、「こんな生のピアノらしい音のするステレオは聴いたことがない」と呆れていたものです。

買った当時は、昭和46年のスミソニアン協定で一ドル308円に切り下げられてあと、昭和53年の1ドル200円を切るまでの間ですから、250円くらいの相場だったのでしょう。なにしろ2台のスピーカーで50万円という価格でした。当時私のような青二才の月給は10万円に満たなかったはずです。もちろん私なんぞに買える金額ではない。事情があって弟が所有していたものを譲ってもらったという次第でした。

P1010161 良くも悪くも人生を共に歩んできたスピーカーです。愛着があります。さすがにエッジが破れて低音がぼこぼこと言い出し、ここ10年くらいは音出しをしたことがありませんでした。それでも捨てるに忍びなくいつかは修理をして、と考えていました。さすがは大英帝国。日本製とは違います。今でも修理ができるのです。2台のエッジ交換費用は4~5万円くらいだと電話で確認しました。しかし部屋も狭いし、このスピーカーの性能を十分に出し切ろうとしたら300ワットのアンプが必要です。(アンプはまだ現役で動作しているが)それと、処分しないとこれ以上本を購入しても置くスペースがないというジレンマに陥ったことです。

Yahooのオークションにジャンク品扱いで出品したら、40人くらいの方が入札に参加してくれました。おかげで結構な価格で落札されました。まだまだこのスピーカーの人気は衰えていないのですね。びっくりしました。

日本とヨーロッパの文化の違いを考えさせられます。中野孝次が「古都再訪」というエッセイで書いていることですが、第二次大戦の空襲で街全体が大きな被害を受けたドイツの都市、ニュルンベルクやドレスデン、中世の面影を残した田舎町のローテンブルクでさえも、古都保存条例にしたがって破壊される"前と同じ町並み"を再現させたのです。その再現方法は徹底していて、焼け残った建物と新しく再現した建物の区別がつかないほどであったと書いています。日本人なら新しい都市計画を作り、広い道路を通して全部四角いビルに建て替えてしまうところでしょう。実際に京都の町の破壊されようをみると、唖然とします。歴史のある京都の町だからということでアメリカ軍でさえ空襲の対象から外したにもかかわらず、戦後になって日本人自らの手で破壊しているのを見ることになろうとは。あの京都駅の街にそぐわない異様も不気味です。

古くても良いものはよい。長く使って壊れたら修理して孫子の代まで使う。スピーカーだけではなく、人生とは、生活するとはどういうことなのかという根本的な問題ですよね。大量生産・大量消費が日本の高度経済成長を支えたのでしょうが、その結果がこんな日本にしてしまった。100円ショップの品物で部屋をいっぱいにして満足している日本人。いや、労働者でさえ使い捨ての派遣労働。本当に、何が大事で、何が大事でないのか。「ブレニンは、人生でもっとも重要なものは、計算ずくでできるものではないことを。真に価値のあるものは、量で測ったり、取引できないことを教えてくれる。」根底から考え方を転換しないかぎり、日本の再生は有り得ません。坂本竜馬が見たら「こんな国にするつもりじゃ、なかったがやきに」と言うんだろうね。きっと。

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2010年8月 8日 (日)

『哲学者とオオカミ』がん患者&生&死 (2)

Mark_rowlands_narrowweb_2 ブレニンは脾臓がんが転移して死んだ。フランスでブレニンと過ごした最後の一年は変化に乏しい毎日であったが故に、宝物のような時間だった。「ブレニンは死ぬことで何を失ったのか」という疑問にローランズは立ち向かう。

ギリシャの哲学者エピクロスは死について「私たちが生きている間は、死は起こらない。なぜなら死は生の限界であり、生の限界は生の中にはないからである。また私たちが死ねば、私たちは存在しないのであるから、死は私たちに害を及ぼすことはもはやできない。」したがって、死を恐れることはないと言っている。

しかし、私たちはこのエピクロスの論拠のどこかが間違っていると感じる。少なくとも私たちは死によって何かが奪われるのではないかと考える。死が生を奪うのか? そんなことはない。文学的には「死によって生が奪われる」という表現はあるかもしれないが、生の行き着く先が死であり、死は生の結果ではあっても生を奪うのではない。死んで存在しない私たちから何を奪うことができるのか。

死は私たちから未来を奪うことによって害を及ぼすのだろうか。ブレニンが水を飲みたいと思ったとき、部屋の隅の水入れまで歩いて行く。少なくともその時間は生きていなければならない。この意味での未来は多くの生き物に存在している。しかし、私たち「サル」は欲望・目標・計画という考え方で未来を持つことができる。そしてこの意味の未来の可能性を失うから、私たちの死は他の生物の死よりも大きな害を及ぼすことになると考えている。未来を持つためには人生において投資が必要である。投資は私たちが20歳前後になるまでの教育を受けることを考えれば明かである。運動選手は練習に励み、音楽家はレッスンに明け暮れる。人が死ぬときに失うのは、それまでの人生でしてきた投資の総額である。人の死は他の動物よりも失うものが大きいから、投資額が大きいから、人間にとっての死は他の動物よりも悪いのだ。

哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解るマーク・ローランズは前著『哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解る』においてこのような考えを信じていると公にした。(第9章 『ブレードランナー』で死の意味が解る)

死についての、より多くの投資を失うとするこの考えは、根底に、ある時間概念を含有している。時間を、過去から現在を通って未来へと飛ぶ矢として考える。矢には欲望・目標・計画が載っている。矢は標的に当たらなければならない。生きることの意味は欲望・目標・計画と結びつくべきであり、その機能であるべきだ。死は飛んでいる矢を切断することで害を与えるのである。

しかし今、ローランズは「自らの洞察力のなさとサル的な偏見にゾッとする。投資などとはなんとサル的であることか」と言う。私たちは未来に投資をしてきたから、オオカミよりも尊いとは言えない。

私たちは、人生の時間を一本の線だと思っている。そして「今この瞬間」は、過去に起こったことの記憶とこれから起こることへの予想からできている。したがって瞬間は前後にずらされ、時間の中に分散される。瞬間は絶えず跳び去っていく。だから私たちに「今」はない。生きる意味は決して瞬間の中にはない。飛ぶ矢の先に生きる意味を捜そうとせざるを得ない。私たちは、未来をどう生きたいかというビジョンを持っているがゆえに、「今」は手から滑り落ちていく。本当はしたくないことをして過ごす時間が圧倒的に多い。私たちは「今」という瞬間をそれ自体として楽しむことは決してできないようにできている。「サル」だからである。

人生の時間が直線ではなく、輪だと仮定しよう。ニーチェのデーモンが言ったように永劫回帰だと。同じ人生がそっくりそのまま、ありとあらゆるものが細大漏らさず再現され、永遠に繰り返されるのだと。そのとき、人生の意味は直線上のある決まった点へと向かう進捗の中に存在することはできない。すべての瞬間が、ある地点への通過点ではなく、それ自体で完成し、完結する。そうなると人生の意味は、遠い未来にではなく、「今ここ」にある瞬間に見出さざるを得なくなる。時間の矢の終着点への拒否は、わたしたちを目新しいもの、時間の矢を逸脱したあらゆるものの中に幸福を求めるようとする。しかし、どのような逸脱も、新たな時間の矢をつくりだすだけであり、わたしたちの幸福の追求は退行的で無益である。

オオカミの時間は、線ではなく輪である。時間が輪なら、「二度とない」はない。永劫回帰である。「二度とない」の感覚のないところには、喪失の感覚もない。オオカミにとって、死がやってきたらそのときが本当に生の限界、人生の終わりなのだ。わたしたちは、線上の時間を生きているから、瞬間は後へと飛び去ってゆく。だから、時間の矢の終着点へと向かう生は、死を含んだ生である。死はわたしたちの人生の限界ではなく、死を常に抱えて生きているのだ。

もし自分が癌を患ったらどうするだろうと想像して、ブレニンと比べずにはいられなくなる。ブレニンにとっては、癌は瞬間的に訪れる苦痛だった。ある瞬間にはブレニンは調子が良いと感じた。けれども次の瞬間、例えば一時間後には、気分が悪くなった。それでも、それぞれの瞬間はそれ自体で完成していて、他の瞬間とはなんの関係も生まなかった。一方、わたしにとっては、癌は時間の苦痛であって、瞬間の苦痛ではないだろう。癌への恐怖、人間にとって深刻なあらゆる病への恐怖は、時間を貫いて広がっている事実だ。恐怖は、癌がわたしたちの欲望や目標や計画の矢を断ち切り、しかもそれをわたしたちが知っているということにある。わたしだったら、家にいて休んだだろう。たとえ、あのときは気分がとても良かったとしても、家にいて休んでいただろう。人が癌にかかったときには、そうするのだ。わたしたちは時間的な動物だから、深刻な苦痛は時間的な災いだ。災いへの恐れは、災いが時間を貫いてすることに存在するのであって、災いがそれぞれの瞬間にすることにあるのではない。だからこそ、災いはわたしたち人間に対して、瞬間の動物に対してはできないような支配力を持つのだ。

オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとても難しいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。

サルの幸運はいつかは必ず尽き果てる。「サル」的なものは、必ずあなたを見捨てるだろう。人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。

ローランズがブレニンと過ごした年月で到達した、こうした死への感覚は、東洋に住むわたしたちには目新しいものではない。かつて「彼岸花と道元の死生観」で触れたように、

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さき ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。

このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、 法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春 の夏となるといはぬなり。(現成公案)

道元においては生と死は前後関係ではない、因果関係でもない。ただ自ずと独立してものであり、「今ここに」の瞬間は飛び去らない。「今日の我は今日の法位に住して、前後ありといえども前後裁断せり」なのである。

わたしたちサルは、ハイデガーが言うように「自分は何者なのか」とか「自分にはどのような価値があるのか」を問うことができる存在であり、それ故に他の動物より優れていると考えがちである。過去をふりかえって、未来を計画する。それが尊いのだと。しかし計画するとは、幸福を量で測り、計算することである。サルは、だから瞬間に生きることが苦手であり、時間の矢の術縛からなかなか抜け出せない。

オオカミは、サルにとって価値のあるものが愚鈍で無価値であることを教えてくれる。人生でもっとも重要なものは、計算ずくでできるものではないことを。真に価値のあるものは、量で測ったり、取引できないことを教えてくれる。

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2010年8月 4日 (水)

玄米は炎症を抑え、がんに効く

安西さんの「米国統合医療レポート」の紹介です。「全粒穀物で炎症レベルが低下」で、体内の炎症レベルを反映するCRP値と全粒穀物の摂取量との関係を調べたメリーランド州の研究者の調査結果です。

CRPの高い状態が慢性的に続くと、動脈硬化、心筋梗塞、がん、認知症などのさまざまな疾患リスクが高まることが分かっています。調査結果では、全粒穀物の摂取が多いほどCRPは低いことが分かりました。

「炎症」とは、生体が何らかの有害な刺激を受けた時に免疫応答が働く防御反応のことです。有害な刺激としては細菌やウイルスの感染、火傷や放射線による被ばく、酸・アルカリなどの薬物による化学的刺激、アレルギー反応などがあります。炎症が起こった時に生体が引き起こす反応(炎症反応)としては、局所の発赤・熱感・腫れ・むくみ・痛みがあります。こうした反応が緩やかに進行するものを慢性炎症といっています。

Img01がんに効く生活』でも、がんが炎症反応を利用して増殖するメカニズムが説明されています。

更に、炎症という火を燃え立たせるかのように、腫瘍はまた別の危険な作用を引き起こす。その一帯の免疫細胞を”武装解除”させるのである。つまり、炎症性因子が生産過剰になることで、結果的に隣接する白血球が混乱をきたす。するとNK細胞をはじめとする白血球の活力が弱まり、目の前で増大していく腫瘍と闘おうとすらしなくなる。

腫瘍の原動力の大部分は、がん細胞がつくりだすこの悪循環の中に存在する。腫瘍は、免疫細胞に炎症をつくりだすように後押しすることで、自分の成長と周囲の組織の侵略に必要な燃料を体内に製造させるのである。腫瘍が成長すればするほど炎症が引き起こされ、自分の成長の栄養として供給される。

この仮説は最近の研究で追認された。がんが局部的な炎症反応を誘発すればするほど、腫瘍は侵攻性が強くなり、離れたところにまで広がっていく。リンパ腺に紛れ込んで転移の種をまくことが実証されたのである。

****

スコットランドのグラスゴー病院では、1990年代からがん研究者たちが、さまざまながんで苦しむ患者の血中の炎症マーカー(CRP値)を測定している。その結果、炎症レベルが最も低い患者はほかの患者に比べ、その後数年間生きられる確率が2倍高い、ということがわかった。

このようにがんの増大と炎症反応とは密接な関係があるようです。私たちは、腫瘍マーカーだけでなく、炎症マーカー(CRP値)にも関心を持つべきです。

日本において全粒穀物といえば玄米でしょう。『がんに効く生活』でも炎症を抑制する食物として、地中海料理・オリーブオイル・オメガ3脂肪酸とならんで、混合穀物を挙げています。

癌研ではCRP値の測定はしていませんが、2008年8月にうめざわクリニックで一度測定しています。(さすがです。梅澤先生。炎症反応もきちんとフォローしている)そのときの値は0.04mg/dlでした。0.30以下が正常とされていますから、私の体内炎症レベルは相当低いということです。2007年の退院時からすぐに玄米菜食に変えたことの効果なのかどうかはわかりませんが、相関関係はありそうです。

朝食と夕食は必ず無農薬栽培の玄米ご飯です。玄米150gが私の一食分。これに有機栽培のすりごまをたっぷりとかけています。あとはオリーブオイル(バージンオイル)をかけた生野菜と納豆、さらに豆腐の味噌汁。イワシか、ときどき鮭。がんに効く健康食です。

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2010年8月 1日 (日)

『哲学者とオオカミ』がん患者&生&死

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン 私たちの中には「サル」がいる。「サル」とは、世界は自分に役立つかどうかの尺度で測る傾向の具現化である。「サル」にとって生きるとは、世界をコスト・利益分析によって評価し、自分の生活、愛、そして死までも定量化し、計算できると見なす傾向である。「サル」にとって他者との関係はただひとつの原則に則って計算される。つまり、「おまえは私のために何ができるのか、それをしてもらうにはいくら払えばよいのか」という原則である。

「サル」のこのような特質は群れ生活を始めることで獲得した。群れ生活は、単独生活では決して得られない可能性をもたらすとともに、単独生活では要求されないような新しい必要事項をももたらす。群れのメンバーを観察して識別し、誰が自分より上位か、下位は誰なのかを記憶する能力が要るのだ。この判断を誤ると悲惨な結果が待っているから、必然的にこの能力は発達する。この能力はやがて群れの仲間を操作し利用することで、自分のコストはわずかしかかけずに群れのあらゆる利益を享受する可能性があることを見出す。それは相手を騙す能力が基礎になる。仲間を操作するのに手っ取り早い方法は相手を騙すことであるからだ。同様に、仲間から自分は騙されているのではないかということに気付く能力も発達する。こうして自分は騙されずに相手を騙す必要性に駆られ、結果的に「サル」の知能はエスカレートする。

「サル」には友人はいない。いるのは陰謀の共犯者だけである。仲間うちで徒党を組むことで、群れの利益を徒党の力を借りて自分のものにするためである。自分自身がこの徒党の企みの犠牲者とならないためには、常に自分からも陰謀を企まなくてはならない。

陰謀と騙しは、類人猿や猿が持つ社会的知能の核である。大型の類人猿、ホモ・サピエンスにおいてこの社会的知能は最高点に達した。

******************

以上が、哲学者マーク・ローランズが『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン 』の前半部において主張する点である。ローランズが偶然に「96%のオオカミの子供売ります」の新聞広告を見て車に飛び乗って子オオカミを買いに走ったことから物語は始まる。ブレニンと名付けられたオオカミと新進の哲学者との共同生活である。しかし哲学書でもオオカミの飼育記録でもない。ブレニンと暮らすことにより、人間とは何か、愛とは?死とは何かを、ブレニンとの生活を通して考察した記録である。そしてブレニンはがんによって死ぬ。

この本を読むことによって私のオオカミに対する既成観念は大いに変更を余儀なくされた。また、人間について、死についての観念も、こちらは少しばかりではあるが、変更を迫られた。

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謀略と騙しの応酬において悪意が主要な傾向となったときには、サルは自分の仲間に対して残酷に振る舞えるのである。それゆえに、サルの中で最初に形成されるのは正義感である。なぜなら、もしも相手のサルが謝罪やなだめる素振りをしてもなお執拗な攻撃を止めなく、しかもこうした事態が頻繁に起きるならば、群れはやがて崩壊してしまうだろうからである。こうした正義を為すためには理由が必要であり、証拠がいる。攻撃をするには権限が必要である。真に卑劣な動物だけが、理由・証拠・正当化・権限という概念を必要とするのである。サルは悪意に満ちていて、仲直りの方法に無関心であればあるほど、正義感を必要とする。サルだけが唯一、道徳的な動物となる必要があるほどに不愉快な動物である。徳に大型霊長類であるホモ・サピエンスにおいてこの傾向は一層顕著である。

子オオカミのブレニンと暮らしたローランズは、ブレニンが死ぬまでのオオカミとサル(自分自身)を比較してこのような人間に対する見方をするようになった。しかし、こうした思想は老子においてすでに見ることができる。

孔子が老子に会いに行ったことがあるそうだ。孔子は全世間に知れ渡っていた。老子は年老いて無名だった。(老子とは老いぼれという意味だから)孔子のもとには賢者が助言を受けにやってきたものだ。彼は当時の中国ではもっとも賢い人間だった。しかし孔子は、自分は他人の役には立つが彼自身の役にはたたないと気付いた。孔子は自分を助けることのできる人間を捜すようにと弟子たちを使って全国に捜索を始めた。ある弟子が、”おいぼれ”と呼ばれている一人の老人が目指す人物かもしれないと伝えてきた。

孔子は自分から出向いて老子に会いに行った。老子にあった彼はピントきた。老子の大変な理解力、知的完璧性、論理的慧眼、彼には何かがあった。しかし孔子にはそれをはっきりとはつかみきれなかった。

孔子が尋ねた。「道徳についてのご意見は? 善き品格を培うにはどうしたらいいとお考えですか?」

老子は高々と笑ってこう答えた。「もしあんたが不道徳であったとすると、そのときに初めて道徳などという問題が起きてくる。あんたがなんの品格もなかったら、そのとき初めてあんたは品格のことなどを考える。品格のある人間は、そもそも品格などというものが存在するという事実さえ忘れているのだ。道徳のある人間は”道徳”という言葉が何を意味するのか知りはしない。だからして、たわけたことは言うでない! それに、何かを培おうなんてことはしなさるな。ただ、自然でいるがいい。」と一喝したそうだ。

老子の発するすさまじいエネルギーに、孔子は恐ろしくなって震えだして退散した。外で待っていた孔子の弟子たちは我が目を疑った。皇帝の前でさえびくびくしたことのない孔子が、震えて、冷や汗をにじませて出てきたからだ。孔子は弟子たちに言った。「この男は危険だ。この男は龍だ。彼がどのように歩くのか誰も知らない。彼がどのように生きるかを誰も知らない。決して彼に近づいてはならないぞ」

オオカミは道徳、品格、正義、そんなものは問題にしない。それが問題になるのはサルだけである。老子は龍と言うよりも「オオカミ」である。

ここはやはり加島祥造の「タオ-老子」を持ってこなければならないだろう。

美しいと汚いは、
別々にあるんじゃあない。
美しいものは、
汚いものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
善悪だってそうさ。
善は、
悪があるから、
善と呼ばれるんだ。
(タオ-老子 第二章)

 

じっさい、タオが
堕落し始めたんで、人間は
仁義なんてものを説きはじめたのだ。
人間愛とか正義とかいうものが
必要になったってわけだ。
なまじ情報や知識を発達させたせいで
大嘘や偽善や詐欺がはびこった。

道徳は孝行息子を褒めるがね、
ダメ親父が家族を放り出して
道楽するから、
孝行息子がでるのさ。
(第十八章)

長くなったので、次回へ続く、とします。

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