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2017年9月23日 (土)

彼岸花の命は短い-道元の死生観

2007年に膵臓がんの手術後、快気祝いにと伊豆の修善寺に一泊で旅行しました。奮発して老舗の新井旅館に泊まったのですが、近くの散策路で一輪の彼岸花が大木の幹に咲いているのを見つけたのです。

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旅館街から桂川沿いの遊歩道を歩き、竹林の小径を歩いてちょうど半分くらい来ると、和風ギャラリー「しゅぜんじ回廊」がある。このギャラリーの庭にある大樹の幹に、風の悪戯で種が飛んできたのだろう、盛りを少し過ぎた彼岸花が咲い ていた。

命の短い彼岸花が、樹齢百年以上かと思われる樹に抱かれていた。彼岸花の命は短くて、それを抱いている大樹の命は長いと感じるのが世間一般の感じ方であろう。膵臓がんの手術後の私もそうだった。

手術はできたが、いずれ再発・転移が避けられないのが膵臓がんです。自分の余命が見えてきたこともあり、人間とは、命とはと悶々としている時期でした。

しかし道元はそうではない。

道元の時間観念・生死観には驚く。すんなりとは納得できないのだが、いままでの自分の生死観がひっくり返されてしまう。

「正法眼蔵」の「現成公案」項には、

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さき ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。

このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、 法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春 の夏となるといはぬなり。

生と死に因果関係などはない。前後の関係もない。生は生で独立であり、死は死で独立である。冬が春になるといわないし、生が死になるとはいわないのである。

「時間」についてもすごいことを言う。時間とは存在である、というのだ。「有事」の項には、

しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会(げえ)すべからず。飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべ し。

有時の道を経聞(きょうもん)せざるは、過ぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界(じんかい)にあらゆる尽有は、つらなりながら時 々(じじ)なり。有時なるによりて吾有時(ごゆうじ)なり。

「時」は行過ぎるものでもやってくるものでもない。松も竹も人間も、己の体内にある己の「時間」をただごろごろと転がしながら、「今ここに」生きること、それしかないではないか、と私は一応理解したが、こんな壮大な哲学があったものだと。

生も死も、全宇宙の全現成としてそこに働いている姿である。彼岸花には彼岸花の時間があり、生があり死がある。それは彼岸花に備わっている時間であるから、大樹の時間と比較して長いとか短いということは意味のないことだ、と言っているのだ。

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき ありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときのく らゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。

生というときには、 生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、 ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことな かれ。

生のときはただ生きよ。全力で生に仕えよ。余計なことは考えるな。死のときは、全力で死に仕えよ。生は生の全機現、死は死の全機現であるからしてそのまま受け入れよ、というのである。死を嫌悪するな。嫌うなと断言するのである。

全機現とは「人が持つ全ての機能を現し、発揮する」ことをよしとする道元の言葉です。

アップルのCEOだったスティーブ・ジョブズは禅に傾倒していたのですが、全機現という言葉を引いて、

  • 悩みの原因は比べることから起こります。
  • 比べると、自分にないものが見えるからです。
  • 比べない「絶対の世界」では、今あるものに目がいきます。

と語っています。

加島祥造は『求めない』の詩文集の冒頭に、

あらゆる生物は求めている。
命全体で求めている。
一茎の草でもね。でも
花を咲かせたあとは静かに
次の変化を待つ。
そんな草花を少しは見習いたいと、
そう思うのです。

と書く。そう、彼岸花は己の命を、生を全力で生きている。ただそれだけのことなのです。次の変化(死)を待つ。ただ、それが来るのを静かに待つ。大木との比較はしない。私もそんな草花を少しは見習いたい。

中野孝次や加島祥造をとおして道元の生死観を知ることで、少しは死への覚悟ができた気がしたものでした。ただ、「今を生きる」ことだけです。


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